今回のキンスマスペシャルは、2019年に志村けんさんがゲストとして出場した回を再編集したものに秘蔵映像を加え放送されました。
この記事では、4月3日放送の志村けんさんが取り上げられた金スマスペシャルの内容ネタバレと感想についてお伝えいたします。
金スマスペシャル志村けん(4月3日)の内容ネタバレ
中居くん「ちょうど一年前、志村さんがゲストとして来てくださいました。ご自身のことをめったにお話にならない志村さんですが、この金スマで生い立ち、ドリフターズ、そしていかりやさんへの思い。私たちが知らなかった今までの人生について、たくさん話してくださいました。
僕自身もジャンルは違いますがたくさんの影響をもたらしてくれた一人です。ご自身が出られた放送も楽しく見てくださったそうです。今夜は特別編です。志村さんが1年前、最初で最後だなぁと話していくれたこと、笑いにかけた人生をご覧いただきたいと思います。」
志村さんは、1950年東村山市で3人兄弟の末っ子として誕生しました。志村さんにとって最も恐ろしかった存在はお父さん。小学校の教頭で柔道五段、まじめで寡黙なお父さんの存在は、志村家では絶対だったのです。
冗談も通じないお父さんの影響で、家には一切笑いが無く、志村さんは品行方正な幼少期を過ごします。
お笑いに目覚めたのは小学生の3年生の時のこと。
徒競走が行われたその日、学校のトラックで順番を待つ志村少年を、猛烈な便意が襲います。なんとか自分が走る番まで我慢しましたが、スタートのピストルの音に驚き、漏らしてしまいました、大のほうを。情けなさに泣きながらトラックを後にする志村少年、その日以降「うんこ垂らし」というあだ名がついてからかわれることに。
屈辱的なこの状況を何とか払拭したい、そう思っていた志村少年は、酔っぱらいの落語が収録された1枚のレコードと出会います。それをアレンジし「酔っぱらいのコント」として学校で披露した志村さんは、いじめられっ子から学校の人気者になることに成功。
「人を笑わせることは気持ちいい!」
「お笑い魂」に目覚めた志村少年は、人を楽しませることに喜びを感じるようになりました。
そのころは、家庭にテレビが普及始めた時期。普段笑わない父親が、喜劇番組を見て大笑いしています。それを見た志村少年は、
「こんな暗い家を笑いで包む喜劇役者は素晴らしい」
と感動。コメディアンになりたいという思いが次第に大きくなっていきました。
ドリフターズ入りのきっかけはビートルズ
高校時代、志村さんは当時人気絶頂にあったビートルズに憧れます。髪型もビートルズをまね、マッシュルームヘアーに。髪の毛もまだフサフサ。
「高校生の時、来日したビートルズのコンサートに行ったとき、前座で歌うドリフターズを見て、弟子入りを決めた」
というのが、志村さんがドリフターズと出会ったきっかけ、と言われますが実は違いました。ビートルズの来日公演は複数日にわたり行われ、志村さんは観に行った日はドリフターズが前座で登場した翌日。
お笑いと同じくらい音楽が好き、と言う志村さんは両方が出来るコミックバンドとして、当時人気だったドリフターズへの弟子入りを決意します。当時、音楽雑誌には芸能人の住所などが付録として付くことがありました。つてのない志村さんは、雑誌でドリフターズのリーダーいかりや長介さんの住所を突き止め、直談判することに。
自宅に向かうといかりやさんは不在、しかもいつ帰るかわからないと言います。
「こんなことであきらめていては成功するはずがない」
はじめはそのまま帰ろうと思っていた志村さんでしたが、そう自分を励まし、雪が降る中、自宅前でいかりやさんを待ち続けました。12時間後、いかりやさんが帰宅するのを確認し自宅へ。付き人を願い出ると、空きが出る予定だと言います。後日連絡を待つことに。
一週間後にいかりやさんから連絡が来ます。後楽園ホールに呼ばれた志村さんに、
「付き人が辞めたからお前を雇ってやる。明日から」
いかりやさんはそう告げられます。志村さんは高校2年生。卒業にはこだわってませんでしたが、家のことで気がかりなことがありました。
志村さんが小学生のころ、彼のお父さんは、バイクに乗っていて転倒。それ以来、記憶と意識があいまいになっています。まだ50歳でしたが家族の手助けが必要な状態でした。
「父の世話を家族に押し付けていいのか」
そう悩む志村さんの背中を押してくれたのは、彼のお母さんの言葉でした
「お父さんのことは気にしなくていいから頑張ってきなさい」
志村さんは、ドリフターズの付き人になることを決め、テレビの世界に飛び込むことになったのです。芸名は父けんじの名前からとった「志村けん」に決まりました。
つらい下積み時代が長く続きました。当時のサラリーマンの月給は3万円。対して志村さんの月給は5千円、食うものにも困る生活です。ドリフターズが頼んだ出前の残りを食べ、飢えをしのいだこともありました。
早朝から深夜までドリフメンバーの世話に明け暮れる毎日。特につらかったのは寝台列車を使った地方巡業の移動でした。楽器や荷物を全部列車に積んだあと、一番下っ端だった志村さんは、盗まれないよう寝ずの番をしなければいけませんでした。
いつまで続くかわからない下積み時代、くじけそうになる志村さんでしたが、吐息で曇る列車の窓ガラスに
「今にみてろ」
そう書いて自分を勇気づけました。
その後もあわただしく雑用をこなしながら、ドリフターズの舞台やリハーサルを覗いては、いかりや長介からコントづくりのノウハウを学んでいきました。
1972年、付き人になって3年、いかりや長介にお願いし、先輩付き人とコンビを結成。「マックボンボン」として芸能界デビュー。デビュー当時は苦労しましたが、ステージの感覚をつかむとすぐにうけ始めました。わずか1年でレギュラー番組を受け持つことに。
そんな中、お父さんが亡くなったという知らせが届きました。遺体の置かれた病院へ行ったものの、どうしても父の顔を見ることが出来ませんでした。収録直前の出来事で、
「父の顔を見たら、絶対その日の収録に影響が出る」
志村さんはそう考えたからです。お笑いの厳しい道をまっすぐ進む、という決意の表れでした。
しばらくしてマックボンボンがコンビ解消し、再び付き人となりますが、ドリフメンバー荒井注さんの脱退で、ついに念願のドリフターズメンバー入り。「8時だよ!全員集合」へ登場しますが、3か月はスタッフロールに「見習い」がついていました。
当時志村さんの知名度はそれほど高くなく、「ドリフメンバーの中にいる謎の知らない男」というのが視聴者の認識でした。収録中の客席の笑い声も志村さんだけまばら。
志村「一生懸命やってるのが空回りしている状態だった」
志村さんはプレッシャーに押しつぶされそうでした。
しかし東村山音頭で人気を得た志村さんは、快進撃を続けます。「ハトヤ」「ピカピカの一年生」「ヒゲダンス」「カラスの親子」などなど数々の人気ギャグを連発。徐々にドリフターズの中心人物的存在になっていきました。
ちなみに「8時だよ!全員集合」は、意外にもアドリブはほとんどなく入念な打ち合わせの元、行われていたそうです。毎週木曜日、メンバーとスタッフで次のコントの内容の詳細を詰める会議が行われます。その際、いかりやさんのOKが出るまでその会議は延々と続いたそうです。時には日をまたぐことも。
1969年にスタートし、最高視聴率50%超えという驚異的な数字をたたき出してきた「8時だよ全員集合」にも陰りが見え始めました。80年代に入り「俺たちひょうきん族」が裏番組で放送され始めたころから徐々に視聴率が低下していきます。
時代の変化、裏番組の台頭など番組が抱える課題は山積みでしたが、それ以前に志村さんが不安に思っていることがありました。いかりやさんの番組への情熱が覚めているように感じたのです。いかりやさんは木曜の会議にしばしば遅刻するようになり、打ち合わせの進行を、志村さんに任せて早々に帰ることも多くなっていきました。
「しんどくなってきた」
地方巡業の際、いかりやさんに飲みに誘われた志村さんは、いかりやさんから胸の内を明かされます。
1958年9月28日「8時だよ全員集合」は最終回を迎えました。放送回数803回、最終回の視聴率は34%。
新番組「カトちゃんけんちゃんごきげんテレビ」まであと3か月。志村さんに余韻に浸っている暇はありませんでした。志村さんは後にテレビ界に大きな影響を与える斬新な企画を生み出しました。
「家庭用カメラで写した映像を番組で紹介するのはどうだろう」
志村さんの提案に、はじめはスタッフの誰もが反対しました。当時の家庭用ビデオカメラ普及率は10%以下だったからです。
「この企画は絶対に成功する」そう確信した志村さんはスタッフを説得し、企画を通しました。
「カトちゃんけんちゃん~」最高視聴率36%を記録し、全員集合に匹敵する大ヒットとなりました。のちにyoutubeが登場した際には、この番組がオリジナルだとまで言われています。
「視聴者が撮影した映像を番組で流す」志村さんが企画したこのアイデアは、様々なところへ影響を与えました。
金スマスペシャル志村けん(4月3日)の感想
番組の中で志村さんが
「お笑いは本来あったかいもの、だからお笑いをやる人間はあったかい心を持っていないといけない」
そう語っていた志村さん、お笑いに真摯に向き合う心構えは畏敬の念を覚えます。
今テレビをにぎわしている「芸人」と呼ばれる人たちの中に志村さんほどお笑いに真剣に向かい合っている人がどれほどいるだろうか?と改めて考えると、両手の指で事足りそうです。志村さんが周囲に与えた影響は本当に計り知れませんし、これからもその業績は生き続けるのでしょう。偉大なコメディアン、志村さんのご冥福をお祈りします。