2020年3月6日に公開された映画「Fukushima 50(フクシマ50)」
2011年3月11日午後2時46分に発生した東日本大震災で、福島原発を襲った史上最大の危機と最後まで戦った者たちがいました。
世界は、彼ら勇気ある50名の作業員たちを「Fukushima50」と呼び、今も奇跡を起こした彼らのことを讃えています。
この映画はそんな彼らのことを語る真実の物語です。
映画「Fukushima 50(フクシマ50)」のあらすじ
SBO
2011年3月11日14時46分
後に東日本大震災と呼ばれる、震度6強の強い揺れが福島第一原子力発電所を襲います。
1~3号機までの原子炉に、自動的に制御棒が入り緊急停止したため、外部電源を失った発電所は非常用電源であるディーゼル発電機を起動し、切り替わりました。
この時、原子炉に一番近い所に位置する1号機と2号機の中央制御室で、当直長の伊崎を筆頭に多くのベテラン作業員達が対応を余儀なく求められる慌ただしい状況になります。
現場の責任者である所長の吉田は、緊急時対策室を設立し、東京の本店との連携を計るために連絡を取ろうとしていました。
その時、津波警報が発表され、作業員たちに退避指示を出します。
しかし、想定をはるかに上回る津波が現地へ押し寄せてきたのです。
10mまでであれば防げるはずの防波堤を超えて襲ってきたその津波は、全てを押し流す勢いで施設内へと流れ込んできました。
流れ込んできた大量の海水で非常用電源が水没し、施設内が全電源喪失(SBO=Staition BlackOut)に陥ったため、電源が無くなったことでメルトダウンが引き起こされると彼らは予測します。
「チャイナシンドロームが起こる」
もしこのまま福島第一原子力発電所を放棄した場合、東日本を中心に日本全体へ壊滅的被害をもたらしてしまいます。
この危機的状況を回避するため、彼らの戦いが始まるのでした。
避難指示
ただちに周辺住民の避難が開始されます。
詳細な状況が知らされないまま、原発に近い位置の住民から順に、バスに乗り、または自分たちの車で避難を始め、その避難地域の規模は次第に拡大していき、その中には伊崎の家族もいたのでした。
伊崎は、地元の原子力発電所の建設に貢献し、高度経済成長と共に、この土地に潤いをもたらせた自分の父親のことを誇りに思っています。
当直長の前田とその家族も同じように避難していました。
避難所で再会した伊崎の妻・智子は、情報が入ってこないことで不満を抱えている避難住民が多いため、前田の妻が着ていた東電のロゴが入った外着を脱ぐように言います。
一方、首相官邸では、政府による記者会見が行われ、記者の質問が飛び交う中、ある一人の記者が声を荒げて尋ねました。
「教えてください!福島これからどうなるんですか?」
ベント
震災の発生以来、被災地の情報の中に、福島第一原発の報道が国内だけでは留まらず、世界中に向けて増えていきました。
アメリカ大使館は本国にこの危機的状況を報告し続けていきます。
原発の状況は次第に悪くなっていき、電源を喪失したことで、原子炉内の冷却水が消耗し、温度が上昇、そして整備区域には、作業員が近づくことすらできませんでした。
炉内の圧力がどんどん増加していき、メルトダウン(炉心溶融)の危険性が徐々に高まっていきます。
圧力計は通常の2倍近くの数値を指し示し、電源が喪失した状況下なため、手動で炉内の圧力を速やかに低下させるために、原子炉の弁を開くベントを行う必要性が出てきました。
伊崎は、自分と一緒に二人一組のチームを組んでその危険な作業を行える者はいないか募ります。
そのとき、伊崎は責任のある立場にあるのと、若い者には将来があるという理由から、経験豊富な大森が名乗り出ました。
原子炉内部の放射線量は基準値を大きく上回る数値になっており予断を許さない状況です。
そんな中、伊崎と吉田がベントの作業を取り掛かる決断をしたころに、首相が直々に陸上自衛隊のヘリで現れました。
その首相への説明などの対応でベントの作業に遅れが生じ、現場の作業員たちに焦りと苛立ちが募っていきます。
一刻を争う状況の中、決死隊を作るため、首相には黙ってもらいベントに取りかかりました。
一つ目の弁は工程通りに作業をすすめ、無事に開放することに成功しましたが、二つ目の弁の作業に向かったチームは高温と放射線量の高さから、辿り着くことができず、その結果一号機は水素爆発を起こすのです。
暗闇の中で
SBO以来ずっと真っ暗な中央制御室で、懐中電灯を照らしながら、家族や国のために懸命に努力してきた彼らにも、疲労と放射能の恐怖が徐々に積み重なっていきます。
電源復旧と炉心冷却のために、職員や社員、陸上自衛隊員の皆が、命がけで仕事をしていました。
試行錯誤を繰り返すも、なかなか結果がでない状況下で、危険が迫る最前線の中央制御室は最低限の5名を残し交代制として、他の大部分の人は免震棟への退避を決定づけていました。
免震棟へと退避することになった伊崎は、わだかまりが残っていた娘の遥香に本人が生きたいようにしてやろうとメールを送ります。
しかし、そのメールの内容には普段使ったことがない絵文字があって、遥香はそれをみて父に何かあったんだと不安になりました。
映画「Fukushima 50(フクシマ50)」のラスト結末
トモダチ作戦
米軍は震災の発生直後から、様々な状況を想定し、それに対応できるあらゆる支援方法を検討していました。
かつて自分の父親が技術者として、福島第一原発の一号機の建造に携わっていた米軍将校・ジョニーは、福島原発の報道を見て、複雑な思いをしていました。
彼の中には日本人以上に、家族と移り住んだ福島や、共に遊んだ双葉町の子供たちのことを想う地元愛であふれていました。
彼は、救援物資で被災地を支援するトモダチ作戦の遂行を決定します。
奇跡
最低限の人員のみで作業が進行していき、手作業でのホースつなぎ、危険を伴う注水など、決死の作業の末、残った原子炉の冷却がはじまり、安定をさせることに成功します。
最後まで現場に残り、任務を全うした伊崎も家族のいる避難所へやってきました。
無事を喜ぶ彼は、抱きしめた最愛の娘のぬくもりを感じ、生き延びたんだという事実をやっと実感したのでした。
時は進み、3年後の富岡町で伊崎は、帰還困難区域になってしまった双葉町へと車を走らせ、2010年6月に、吉田が赴任してきた時のことを思い出していました。
立場は違いますが、二人は同い年で、ずっと共に働いてきた仲間です。
伊崎にとって戦友でもあった吉田は、あの壮絶な原発事故の二年後、食道癌で亡くなっていました。
彼は、伊崎に手紙を残していました。
あのとき何が悪かったのか、彼も考え続けていました。
自然の力を甘く見ていた
10メートルを超える津波など来るわけがない
40年以上もの間自然を支配したつもりになっていた
それは全て慢心なのだという反省の内容の手紙でした。
あの壮絶な日々をともに闘った者達が、吉田の葬儀に集まりました。
「よしやん。俺は、最後までお前さんと一緒だった」
伊崎は、二人の時には吉田のことをよしやんと呼んでいたのです。
車で通り過ぎる朽ち果てた街並みには、“原子力 明るい未来の エネルギー”という看板がありました。
彼は、学校の社会科見学で原発の広報施設に行き、そのメカニズムをまるでSFのように心を躍らせて聞いていた少年時代を思い出していました。
昔と変わらぬ桜の並木を目の前に、「よしやん、今年も桜が咲いたよ」
あのときのことは、必ず後世に伝えると心に誓う伊崎でした。
以上があらすじとなります。
映画「Fukushima 50(フクシマ50)」の感想
この映画は事実に基づいて構築された映画なので、当時の福島原発の現場の様子が感じられる作品となっています。
あの当時に、彼らが逃げずに戦ってくれなければ今の日本はどうなっていたのでしょうか?
そのような感謝の気持ちや、自然がもたらす脅威、最愛の人を失う悲しみ、様々な感情が内から湧いて出る作品です。
この一件で、原子力発電に関する議論が様々な場所でなされてきました。
恩恵だけでなく、危険性や放射性廃棄物の問題など、現在も続くこの問題についての関心が、本作がきっかけで今一度、世間で高まっていくことでしょう。
映画「Fukushima 50(フクシマ50)」のロケ地についてはこちらを見てみてください。